2010-12

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共生共死への試案(その三)

共生共死への試案(その三)

 シビックジャーナリスト倶楽部の皆さん、こんにちはroqmです。

Zipang 地域と地域を結ぶ情報サイト ジパング コミュニティ サービス
http://www.zipangweb.jp/

 死生観について事例に挙げた四項目のうち、生死の誕生側です。
 死を科学的に証明するより、生誕の証明の方が、これからお伝えする事例のように可能性が高いように思っています。
 「共生共死への試案」の目的は、次の補足を含めつつ、
 ●地域の自然すべての『共生共死』
 ●死とは恐れるべき無ではなく、生きているものと共に受け入れる『共生共死』
 現下の明るい希望を持ち得ない重苦しさを吹き飛ばすためには、生き抜く発想の根源を再発見することや、新たな基準を創り出すことが必要です。それはWEBによって小さくなった地球の現実を否定せず、生活共同体を地域コミュニティとして再構築することによって実現できるのではないかと思うのです。
 この根源的な視点は、利子を生じて一人歩きする貨幣、言い換えれば、人々を助けるためのロボットが勝手に人類を支配することや、投票による選挙で確定される民主主義の即応性の欠如、グローバルブランドと地産地消の対比に見られる何のための生産なのか、今日的な流通経費と販売促進費の肥大化は本当に必要なのか等、もろもろの現代的常識を再検討する必要を実感させます。
 これらの諸課題のなかで、私は死への恐怖、絶対無か生か、と言った近代科学至上主義を修正するべきではないかと考えるのです。従前の宗教領域から外れた科学的手法のアプローチが要ります。
 科学的手法の必要性とは、民話、民俗学、宗教儀礼と葬儀業界等を幅広く含めた産業としての創設につながります。地域コミュニティの元気再生が目的なのですから、死という絶対無での思考停止状態では希望の種にも生活の糧にもなりません。死者への冒涜や自殺の勧めではありません。生き残るものたちが死者への尊崇と共に、生への励ましを実感できるような新しい生活の仕組み、所作を創り出し経済活動としての産業化するのです。この産業が葬儀業界等と異なるのは、宗教儀礼に捕らわれない、日常的互助カウンセリング・サービス的なものとなると考えます。
 誤解を招かないように補足しますと、新興宗教とかニューエイジ運動とは、全く異質な提案です。なぜなら科学的例証にて認証された知識知見を実生活に役立たせようとするものです。
 事例を挙げる前に、おことわりしておきますが、「ルドルフ・シュタイナーの精神科学から見た死後の生」は、紹介解説が長くなります。それと約1世紀前のこの著作は、今日一般的にはオカルトと見なされております。従って、地域コミュニティの元気再生の目的にそった編集が出来たら掲示するつもりです。ただし、今回の事例の中で当資料を引用している部分があります。

 さて、具体的事例を挙げながら進めましょう。

■胎内記憶 を持つ子供らが医学調査によるとナント33%もいた■
 =医学調査
 参照HP 「胎内記憶・受胎前記憶について考えるページです」
http://blog.livedoor.jp/tainaikioku/archives/19524636.html

 胎内記憶とは、母親の胎内にいた時や出産時の事を、赤ちゃんや子供(乳幼児)が記憶しているということ。胎内から外が見えた、胎内に入る前の記憶(受胎前記憶)があるなど、説明しにくい記憶がある。
 参照事例でも、現況の医学、発達心理学の通念に配慮して、控えめな記述です。
 このように前向きな研究者を高く評価したいのですが、医学、発達心理学の枠内での取り組みに限界があることは明白でしょう。
 あらかじめことわっておきますが、科学的な努力をされている方々は、私のような門外漢が神秘領域に関連づけるようなことは、大変な迷惑なことでしょう。
 しかし、今日のような終末の予感による重苦しさに捕らわれた方々には、共感していただけると思うのですが、もうあまり残された時間がないとも言えます。この時間とは、地上も含めた壮大な宇宙時間をも意味していると考えています。従って、あと2年なのか、10年なのかは分かりませんが、今まさに本質的「ま真」な取り組みをすべきと思っています。
 私見ですが、社会心理学の1分野で、1930年代にクルト・レヴィンによって創始されたグループ・ダイナミックスgroup dynamicsがあります。
 この手法でアプローチすれば、科学的な地位を比較的確定しやすいと想定しております。
 グループ・ダイナミックスを極めて端的に表現すれば、集団内の関係性を一対一の関係に微分し、有無を数学的0or1、イエスかノウで構成し説明すると理解しています。
 これは、極めて電算西洋的と言えますが、陰陽道的アプローチもそれほど捨てたものでないとの直感です。
 既成概念と既得権益から抜け出せない既往学会から、新たな知見は生じないでしょう。
 医学調査で、信頼し得る例証が33%もあるならば、別の母集団でも同様の結果が証明できるにもかかわらず、非科学的な社会的位置付けは、空しいとしか言えません。
 西洋科学的手法のグループ・ダイナミックスを取り上げたのですが、グローバルネット社会で説得力を持つためには、近道です。
 それと、この胎内記憶はテレビで放映されました。
 出産前後の女性にとって、科学だろうがオカルトであろうが母となるべき人々の重大な関心事なのです。
 適切な科学的手法を選択し、かつ社会的有益性を換金計量化(これを言うのは本当に辛いのですが)・精神的ストレス低減効果を明確にする必要があります。
 さらに、母子の健やかな生活様式の担保技術を確立することで、私の嫌いなバイオ産業よりましな産業を創出すべきです。
 大変偉そうなことを言っておりますが、私は医学的知見を持っておりません。
 ただし、死生観の見地からバカ正直な直感を大上段に振りかざし、必要性を感じているのです。
 これらに関係する専門家達は、受胎前記憶・胎内記憶と言う生命誕生の仕組みについて、社会的智恵の推進を急がねば、2・3年後には「三つ子の魂百まで」の因果が回ってきます。
 確かに、既に手遅れかもしれません。
 我が国や世界の青少年がニヒリズムにおちいり、集団的崩壊パニックが近いかもしれません。
 しかし、私の直感的対処が一部でも、若いお母さんやお父さんへ、その心魂を伝えることが出来たなら、劇的変換の萌芽が生じると信じています。

 この件について、ルドルフ・シュタイナーは、資料要約引用
●誕生の時点へ戻る自我とアストラル体53p-にて。
 『受精・受胎をとおして心魂と精神が地上の身体のなかへと下ってくるまで滞在していた世界に、私たちは戻るのです。睡眠中、私たちは現時点にとどまるのではありません。自我(個我)とアストラル体(感受体・想念体)は時間を遡って、誕生の時点に戻っています。』
●受肉91p-にて。
 『人間は物質体(肉体)の霊的な萌芽を地上に下らせて、みずからは心魂、自我(個我)、アストラル体(感受体・想念体)として精神界にとどまったあと、宇宙エ-テルからエ-テル実質を集め、自分のエ-テル体(生命体)を形成します。そのようにして形成したエ-テル体を携えて、受胎の約三週間後に、霊的な萌芽に従って形成された身体の萌芽と結び付きます。』

 これらの人智学的示唆を、科学的計量統計学を用いた例証を体系化するならば、3歳までぐらいの幼児が前世や宇宙知識=アカシャ年代記Akashic Recordsの知識、さらに何故その両親より誕生したかなど、すばらしく度肝を抜く世界を語る宝庫であることが判明します。
 話は飛びますが、柴犬、秋田犬、土佐犬などの和犬の遺伝子は、縄文時代から変化していないそうです。私たち日本人は、動物を玩具のように姿かたちを変えようとはしなかったのです。山川草木に八百神の神を感じ、共に生きてきたのです。
 西洋犬の品種改良、遺伝子組み換えの白人が発想するバイオ産業に未来はないと、私は独断します。
 幼子の地上に携えてきた智恵を、生活環境を変えるデータベースとしての構築に、お金を稼ぎたい企業ならば投資するべきです。しかし、幼子達の智恵は、お金について本当の豊かさの拠り所:カレンシーの在り方も明解に指し示すことでしょう。

 この事例より、地域コミュニティの元気再生がどのように結びつくのかは、分かりづらいかもしれません。
 誕生の仕組みは、時間・星だけでなく、空間・日本や地域と深く関わっています。と独断で語ってしまってはいけません。それは3歳までの幼児に尋ねてみれば教えてくれるはずと期待しています。

■誕生日による右脳と左脳のスイッチ■
 =認証された脳医学研究成果
 参照HP 「ヒロさん日記」誕生日という「年輪」が刻まれる瞬間に、耳を澄ます。
http://www.mypress.jp/v2_writers/hirosan/story/?story_id=1320382

 この参照HPは、誕生日で規定される人間について分かりやすく2事例を挙げています。
 初めは、私が尊敬するシュタイナー思想(人智学)による「Moon Node」です。

▼要約引用開始
 『星座のほうは無視して、「地球+太陽+月」の位置関係に着目したもので、自分が生まれた日と同じ「3天体の位置関係」は18.7年に1度めぐってくる。
 占星術にこだわる人は、さらに太陽系の各惑星の位置関係に特別な意味を見出しているはずです。
 「日本人の脳」で有名な角田忠信氏の研究によると、誕生日の午前中に、脳内に「年輪」が刻まれているのだという。
 以下、角田忠信著「右脳と左脳:脳センサーでさぐる意識下の世界」(小学館ライブラリー)の内容をごく簡単にまとめてみたい。
 この先生は、瞬間的に両耳に入る音が、右脳と左脳のどちらに振り分けられるか、という研究を長年続けている人である。
「純音とホワイトノイズ」、「母音と子音+母音」、「自分の声と他人の声」、「楽器音と音声」、「自然界のさまざまな音」などが、右と左のどちらに流れるか詳細に比較検証している。
 「日本人と脳」では、日本人とポリネシア人に限り、この左右振り分けのパターンが、他の全人類と異なるという説を発表して、話題になった。
 これは民族やDNAの問題ではなく、9才頃までに母国語として日本語かポリネシア語を使っている場合に、脳内の音処理回路が変化するという説明である。
 この左右振り分けスイッチは、とても微妙なセンサーで、さまざまな条件のもとで、通常の左右の振り分けとは逆になる「逆転現象」が起こるとされている。
 たとえば、純音を聞かせた場合、すべての言語圏の人が「右優位」(非言語を扱う右脳優位)としてこの音を振り分けるが、40の倍数の周波数(40、80、120Hz・・・)と、60の倍数の周波数(60、120、180Hz・・・)の場合は、「逆転現象」が起こる。
 また聞かせる音源の「組み合わせ数」でも同様の現象がおこり、しかもこの「組み合わせ数」は年齢と関係しているという。
 たとえば、23才の場合、この年齢の3倍と5倍の数(=69、115)の純音から「合成音」をつくると、左右反転が起こるというのだ。
 40才の人は、40×3=120種類または40×5=200種類の音を組み合わせた「合成音」を聞くと、その音を処理する脳内スイッチに異変が起こる、ということになる。
 「合成音の要素数」が大脳生理学で何を意味するのか、本を読む限りでは皆目見当がつかないが、注目すべきは、40才の人が41才になった瞬間に、「120と200」には反転反応を起こさなくなり、「123と205」に反応するようになる、という点である。
 メカニズムはさっぱりわからないが、誕生日をきっかけとして、脳のセンサーが変化するという話なのである。
 状況によって多少の誤差があるようで、著者の角田氏の場合は、58才と59才のときは「誕生日の4日前」の「朝6時から7時の間」に、60才のときは「誕生日当日」の同じ時間帯に切り替えが起こったという。海外出張が多かったため、リズムが崩れたのではないか、と疑っている。
 この変化は「天体の位置関係」からの影響というよりも、体内に1年を測る正確な「体内時計」があるのではないか、と推理できる。
▲引用おわり

 私は、角田先生の研究を、初期段階から注目してきたました。
 学術研究のためHP上では、なかなか見つけづらいのですが、上記引用以外に、誕生日前後の脳内スイッチ変更は、強いストレスや不規則な生活でやや乱れることがあるそうです。なかでも地震の発生時前には、健全で規則的生活者ほど敏感にスイッチが乱れるそうです。
 ここまで言うとオカルト扱いされるのでタブーでしょうが、オジギソウなどの地震予知・宏観現象生物のなかで人間は最高級の感受性があるとの記述を記憶しています。
 角田先生の研究を私は、ノーベル賞級の成果と考えています。
 シュタイナーのMoon Nodeは、私にとって当たり前なのですが社会通念の科学と認められていません。
 角田先生の研究は、古今東西初めて誕生日が人間の基本的生理・性格や運命の規定に一部としても、その深層に関わっていることを科学的に証明したのです。
 非科学的な拡大解釈は、先生には迷惑なことかもしれません。
 西洋占星術の生誕日運命、干支(えと)による性格規定と相性、マヤ歴文化があるメソアメリカ地方に現在でも慣習となっている、260日の1日1日をキン(kin)とし、誕生日キンの名称(男女格別)や性格がそのまま男・女子の名前になっていること等について、科学的に有意性があり、迷信と蔑む対象でないことが証明されたのです。
 我が日本人にとっての、干支による相性をバカにしてはいけません。
 かみさんや旦那様の誕生日以後に一年間の相性が変化するわけですから、ゆめゆめ連れ添いや家族の誕生日を忘れたり、お祝いをしないことは人間関係を損ないますよ。
 シュタイナー教育を実践している学校や家庭では、誕生日祝いが重要な教育行為となっています。
 単に誕生パーティを行うのではなくて、幼児や児童に応じた日記や作詞、演劇などの記録を作成させ、1年後にそれらの記念物をもとに本人や友達、父兄が成長を喜び確認しあうことが行われています。
 大人になってしまった我々には、誕生日前後に劇的性格の変化が生じると断じてはいけない生活環境が現下にあります。
 生活習慣病や神経症などを発症してしまう原因は、我々人間が本来持っている星々とのシンクロニシティ共時性や、自然が奏でる雨・風・波・せせらぎ・鳥・虫などの音を聞き分け、朝日、夕日、木洩れ日の陰影を共感する、心根が荒んでしまっているからでしょう。
 心根や心魂が荒み病みいれば、せっかくの生物最高の高感度チューナーも雑音しか拾えないでしょう。
 日々の生活に追われ、人間関係に疲れてしまうことが多い現況と思いますが、迷路ラビリンスのような大都会東京にも、心根を癒すものは大変多いと私は、友人達に語ります。
 坂道のある神楽坂に住んでいるのですが、通勤通学の通い慣れた道筋でも、ふと茶目っ気でビルの稜線や谷間の日常的には目線を向けないところを見てみろよ。恐ろしく不思議で自然豊かな小さなものが見えてくるよ。特に坂道の上り下りは、目線を少しだけ変えるだけで、メルヘン童話の世界が開けますよ。

ルドルフ・シュタイナーは、資料要約
●生じたことと生じなかったこと107p-にて。
 『だれかが五分早く出発したために、事故死を免れたとしてみましょう。そのような瞬間に、死者が私たちに伝えることがらが、夢のイメ-ジのごとく吹き込まれることがあるのです。しかし、人間は大雑把に生きています。人間は粗雑なことのみを気にかけ、人生に生じる繊細なことがらを気にかけません。精神科学をとおして、感情と感受性は繊細になります。そうすると私たちは、死者たちが自分の人生に関与するのを感じ、死者たちと関係を持つようになります。』

 この事例が地域コミュニティの元気再生とどのように結びつくのかは、前事例と関連するのですが、都会と地方に係わらず自然(=みじかな死者)が語りかけることに聞く耳を訓練することにつながります。
 誕生したということは、父母があった結果です。その誕生日に基本的な感受性が変化するわけですから、1年ごとの人生とは、如何に変化に富んだものだったのでしょう。
 すなわち元気再生に係わるものとは、日常性の中での誕生日の再認識です。ここで誤解されてはとても困るのは、自然(=みじかな死者)との語り合いに非日常というか、魔界幽界とのチャンネルを開くことではないのです。現在過去のほとんどが、この陰ともいうべきものに陥ってしまっているのでしょう。この区別は明確にしないといけません。日常性の中で明るく気軽に語り合う所作というものが過去にはあったと思っています。
 この指摘は大変重要なことと認識しております。我々人類は、この陰の方向性にしばられてきました。
 この陰が国民国家を善悪はともかく一つにまとめる働きがあったことを私は否定できません。
 しかし、今、明るく穏やかで健やかな日だまりの下で、自然(=みじかな死者)との語り合いと切に願っているのです。
 この陰陽の峻別と使い分けは、項を改めて詳述したいと思っています。みなさんに分かりやすく語れる能力が私に備わっていることを望みますが。

相変わらずの独断ですが参考になれば幸いです。
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共生共死への試案(その二)

共生共死への試案(その二)

 シビックジャーナリスト倶楽部の皆さん、こんにちはroqmです。

Zipang 地域と地域を結ぶ情報サイト ジパング コミュニティ サービス
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■■『共生共死』の意味づけ定義■■

試案(その二)の前に、『共生共死』の意味づけ定義について述べます。
当項は、(その一)の補足となります。
 『共死』で検索しますと2系統の解釈があるように見られます。
 一つには、「集団自殺」や戦時中の「軍官民の共生共死」の流れです。
 一つには、宮沢賢治作品の『なめとこ山の熊』を例とした人間と動物とが共に、生きる、食べる、食べられるの関係や、稲作に対する贖罪の稲祭りといった生き物を食べることへの共感の流れです。
 検索の中には、仏教者として共死などという言葉は使いたくないと言ったものもあります。
 これらの共生共死が意味する概念に、生活共同体の枠組みが根底にあることが伺えます。
 国家間が戦時中ならば民族単位であり、農林漁村ならば生活の糧である収穫が対象となっています。
 戦争を経験した世代にとって共死はいまだにタブーとして色濃く残っています。しかし反面戦前には、まちや村に係わらず小さな地域生活共同体での植物や動物を含めた共生共死への帰属や作法があったと考えています。
 地域コミュニティの元気再生へ向けて『共生共死』をキーワードとするには、補足する要件を挙げるべきでしょう。現段階では次の項目が挙げられます。
 ●地域の自然すべての『共生共死』
 ●死とは恐れるべき無ではなく、生きているものと共に受け入れる『共生共死』

 地域コミュニティの元気再生に何が必要なのかを考えていますと、私は『共生共死』というキーワードが浮かぶのです。
 共生共死への試案(その一)で考察のための参考事例を4項目挙げました。
 死生観の4項目は、主に●死とは恐れるべき無ではなく、生きているものと共に受け入れる『共生共死』について、学会やマスメディアが意図的に否定し、とんでもオカルトとして無視してきたのものの中で、科学的手法を通した事例を掘り起こすことを目的としています。
 その一では、『仏教の視点』チベット密教の死者の書(中有の説 バルド・トドゥル)を取り上げました。
 これは、私の父母の死にあたり、みじかな兄弟姉妹が法要の理由を詳しく知っていなかったことから、現代日本人が死者への葬儀の作法を失ってしまっていることに深い悲しみを感じたからです。
 この悲しみに直面することが、地域コミュニティの元気再生に欠かせない対応ではないかと考えるのです。
 地方も大都市も最近は、ハリウッド映画の「2012」に象徴された、重苦しい雰囲気があると述べましたが、この重苦しさは、深刻な思考停止やニヒリズムの原因となっているのです。
 この原因は、私は死に対する「恐怖」死とは何か、その知識と作法の再獲得が対策であると考えています。
 我々は、何者なのか、どこから来て、どこに行くべきなのか、この文化文明の在り方は本当に正しいのか、理性的な対処と言いましたが、私などは、死に直面した際の極白色の光のフォースの前で、ただ狼狽えるだけかもしれません。しかし、驚いているだけでは、だめでしょう。
 何かしらの突破口を見つけ、ささやかな毎日の積み重ねを行わなければ、何でもええじゃないか、自分さえ気持ちが良ければいいんだとかの自己暗示で、本当に生きていけるのでしょうか。
 私は、思春期から、ろくちゃんは、必ず突破できる、神々(?上位存在)からの愛を受け得る(自己犠牲を伴いますが)天才であると常々自己暗示を意図的にしてきました。
 友人に公言しておりますから、誠に胡散臭い自称天才そのままですが、実は、そのぐらいの自己暗示が必要で、それによって、わずかながらでも日常的理性が保てるのではないでしょうか。
 死・世界の終末と言った極大衝撃インパクトを前提におき、どのような対応策があるのかを見つけなければなりません。
 死に対する恐怖に対しての、対応策は歴史をさかのぼり、巨大な先達がサタン(神)の目を意識しつつ、行間に埋め込んだ我々へのメッセージを丹念に拾い上げ文脈として再構築する以外ないと思っています。
 この思いから、死について、密教とルドルフ・シュタイナーを例題としたのです。
 仏教について、顕教と密教の区分、釈迦そのものの教えとその後の弟子や分派闘争は、ご存じと思います。
 チベット密教の成立は、釈迦以後だいぶ時をへて、土着の宗教と融合した教義です。
 チベット密教の事例でも述べておりますが、この死後の解釈が我が日本人にとって、葬儀の形式的な慣例となっており、とっつきやすい説明になるからです。
 日本人の葬儀について、密教教義からの成り立ちを説明したとしても、我々は本当に死を恐怖しているかは疑問です。葬式に立ち会っても、死んだ本人以外は、親族であっても他人事ではないかと思ってしまうのは失礼かもしれません。
 不治の病や、癌の告知など本人の内面的恐怖に我々は対処しているのでしょうか。
 私は、日本で初めての超高級有料老人ホームを企画設計し運営に関与した経験があります。そこで、終末期看護:ターミナルケアの実態をめのあたりにして、こりやだめだ、今死にゆく人への本質的対応がない。
 現場の医者・介護士・ケアマネージャーの真摯な努力を否定するものではありませんが、医療介護葬儀といった現世的対応だけだ。
 今死にゆく人への、論理的理性的な霊魂にかかわるもの、大綱と体系がないと感じ入りました。

■■ルドルフ・シュタイナーの『人智学』■■

 チベット密教の死について、これを補足するものは、ルドルフ・シュタイナーであると前々から思っていました。シュタイナーのウィキペディアでも、端的に示されているのですが、ブラヴァツキー夫人が興した『神智学』協会とシュタイナーの『人智学』(アントロポゾフィー)協会を区別してほしいのです。確かに、シュタイナーはゲーテ研究から入ります。初期のゲーテはメーソンリーとイルミナティに属していましたが、脱会しています。シュタイナーも同じく初期は所属していますが、ブラヴァツキー夫人と袂を分かち『人智学』協会を興すのです。

参照HP イルミナティの真実
http://nvc.halsnet.com/jhattori/Zeitgeist/Illuminati.htm
▼引用
 イルミナティは、いつの時代にも存在した。
 反イルミナティの熱心なプロパガンディストが、イルミナティの起源をエジプト神秘学に、グノーシスに、あるいは新プラトニズムに求めるとき、彼らはある意味で本質をついていた。
 プラトンが“愛知者”であったように、バヴァリア・イルミナティのヴァイスハウプトが知の探究者であったように、ブッディストが“般若=智恵”を求め、グノーシスが“神の知識”を求めたように、イルミナティは、常に「知」とともにあったからである。
 そして現在、イルミナティには少なくとも2つのグループに分類できるだろう。(ただこの2つのグループの定義もネットからははっきりしなかったので私なりに解釈します(^_^;))
 すなわち、純粋な知の探究者であり哲学者でもあり、組織を作ることをあえてしない「ホワイト・イルミナティ」と絶対的な価値を現世のお金に求め、知やお金を利用して、自分たち支配者層より下の人たちを羊や奴隷のように扱い、自分たちの利益のためには、その人たちの権利や生命までも踏みにじる「ブラック・イルミナティ」がいる、ということのようです。(^_^;)
 ただこの2つのグループと言っても一方のホワイト・イルミナティは個人を主体に活動しているだけで、自然と共感し手助けする人たちが集まっているだけで、逆にその個人が教祖になるような組織を作ることを戒めています。
 一方、ブラック・イルミナティは、秘密クラブみたいな形で組織を作り、その時代、その人それぞれによってもどんどん進化し、形態も変えていくようですね。
 例えばロックフェラー財閥の中でも共和党派、民主党派が入り乱れているように、そして現在、ブラック・イルミナティを引き継いでいる人たちは「時代の精神」の映画からもロスチャイルド財閥やロックフェラー財閥などの国際財閥(国際銀行家=国際金融資本家)であることがわかります。(アインシュタインも人類最大の発明品であると認めた「複利」を操り、欲望の元のお金を作り出す人たちです:詳しくは時代の精神の映画の金融編)
 またさらに引用で恐縮ですが、ブラックな現代のイルミナティに批判的だったのが、子供の教育関係で有名なルドルフ・シュタイナー(1861-1925年:人智学運動家)です。
 イルミナティは創世記来続いている血流を中核に、サタニズム的オカルトを強化し地球上に悪魔の帝国を構築し、人類を家畜化支配しようとしており、西洋は、いわば、秘密結社の土地柄である。
 シュタイナーは、1900年代入会していた神智学協会で神智学運動のオカルティズムの関係を次のように語っている。『神智学運動は、神智学協会の中でなされている限り、オカルト運動であるとはいえません。
 オカルト運動は、神智学運動とは異なった前提を持っています。いつの時代にもオカルト結社は存在していました。』(「神殿伝説と黄金伝説」ルドルフ・シュタイナー著、国書刊行会、1997年刊、210頁)
 シュタイナーの言っているルシファーとサタン、キリストの衝動とは何か。
 シュタイナーの時代(1900年代)、限られた特別な人のみ伝えられてきた秘儀が神智学協会によって一般に公開された。フリーメーソン内で今まで参加が許されなかった女性のための講義も始まった。
 「高次の次元の初世界に至る道を見出せないで、全人類が憧れをもってそれを見上げている今日、だからこそオカルト知識の大部分が公開されなければならないのです。そしてこの使命は、神智学協会の内部のオカルティズムにあります」(同上、218~219頁)
 ブラヴァッキー夫人(1831~1891)の創設した東洋の叡智を主動とする神智学協会で、シュタイナーは、西洋の精神の荒廃に立ち向かうためにヨーロッパそのものに内在する叡智を蘇らすことを考えていた。
 シュタイナーは、「神智学協会とは結びつけず、西洋オカルティズムの本流であるフリーメーソンの伝統と結びつけることにした」「シュタイナーによれば、ミスライム王に始まるエジプトの秘儀は、実はアトランティス大陸に由来するものであり、ここから一連の長い伝統が生じた。
 そしてシュタイナーの行おうとしている新しいE・Sのメーソン的儀礼は、この最古の秘儀の継続なのである」(同上、425~426頁)。
 神智学協会が次世代の救世主を指名する段階においてインドのクリシュナムルティを推したのに対し、シュタイナーはそれに反対し退出したのには上述のような考えがあったからで、受け入れられるべきものではなかった。(のちにクリシュナムルティは人間宣言をしている) スピリチャリズムの真実を求めて
 しかし、ご存知のように、フリーメーソン兄弟団は、特定の政治的な衝動に利用されその道具になっている。シュタイナーはそのことを指摘しているためフリーメーソンの陰の側面と対決せざるを得なくなった。
 ブラヴァッキー夫人が創設した神智学運動の影響は、アリス・ベイリー他、ニューエイジ運動に引き継がれていく。
 ニューエイジ運動は、イルミナティのエージェント、キッシンジャーが作ったものだ。
 ニューエイジ運動は、土着の原始信仰を取り入れながらさらに細分化し広がっている。
 報告によると米国において、「ニューエイジ」系列の団体が一万を超えているという。そして、メシア、精神的教祖をおくところが「ルシファー」的といえる。
 その後シュタイナーは神智学を離れて、人智学(アントロポゾフィー)を作った。
 この時点で、フリーメーソンとの結びつきはなくなり、シュタイナーの社会運動になってゆく。
 シュタイナーの人智学(アントロポゾフィー)は、『人』という字を用いることから、人間が重要であり、主体になる。しかし、個人主義、エゴイストをきらう。
 オカルティズムにおいてこの地球期は悪魔の時代という。
 悪魔の時代に生まれた人間は、どうなるのだろうか。そこでシュタイナーがしていることは、オカルト神秘学が起点になっているとしても、悪魔的オカルトの力を借りていることではないことに注意しよう。
 さらに注意することは、何度も言うように、決して「ニューエイジ運動」の感性を持ちこまないことである。ニューエイジ運動は、次に来るべき時代に人間が目覚めないようイルミナティのエージェント、キッシンジャーが用意した新しい監獄である。
▲引用おわり

 参照HPのように、私はシュタイナーがホワイト・イルミナティと思って尊敬しているのです。しかし、全面的に帰依しているわけではありません。
 『シュタイナーが活動した時代は、ヒットラーがサタンの化身として受肉していました。ヒットラーの受肉以前は、ロシヤやポーランドでのポグロム(ユダヤ人虐殺)、アメリカ独立、明治維新、アメリカのアシュケナージ・ユダヤによるナチス支援、戦前の国際決済銀行BISの成立など連綿とした無視できない歴史の作為がありました。
 シュタイナー、王仁三郎に対し、ヒットラーとの霊的大戦争のさなかでの記述ですから、その時代感覚で我々は、読み解く必要があると考えます。』
 王仁三郎の霊界物語等とシュタイナーの人智学活動を私はとても重要なヒントと考えているわけです。
 相変わらずの独断です。参考になれば幸いです。

共生共死への試案(その一)

共生共死への試案(その一)

 シビックジャーナリスト倶楽部の皆さん、こんにちはroqmです。

Zipang 地域と地域を結ぶ情報サイト ジパング コミュニティ サービス
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 地域コミュニティの元気再生に何が必要なのかを考えていますと、私は『共生共死』というキーワードが浮かぶのです。
 地方のまちづくりの仕事をしていますと、人口の1/4以上が65歳以上の高齢者です。この高齢者が、元気に社会参画していただく方策が必要となります。
 大都市の若者や60歳未満の就業者、主婦達はケータイやPCウェッブの利用率が高く、一見情報過多になっています。
 地方も大都市も最近は、ハリウッド映画の「2012」に象徴された、重苦しい雰囲気があることです。
 2009年の末に公開されたこの映画は、マヤ暦の終末である2012年の12月21日に何か天災的な地球の大変動がおこり、あたかも「人類最期の日・人類の滅亡」のような特別なことが起こる日と描かれております。
 地方の高齢者が、この映画やマヤ暦を紹介したテレビ番組を見て、承知しているかは分かりませんが、老い先短い人生をふるさとの自然と共に達観した生活を送っているのでしょうか。私は達観と云うよりは、あきらめていると考えています。
 大都市の人々は、このマヤ暦の終末を知っているのが大半ですが、毎日の生活に追われて、その日になるまで成り行き任せです。
 私は、終末予言のパニックを信じるものではありません。しかし日本や世界が異常気象の高まりのなかで、『あきらめ』が重苦しく充満していることに直面しなければならないと考えているのです。
 あきらめは、合理的思考の停止です。それは間近に恐怖と変化し、妬み嫉み、弱者への差別、ヒステリーや過剰自己防衛の暴力犯罪になります。
 死生観とは、宗教が死への手引き、哲学が生き様を語るなどが一般的となっています。
 哲学は共生を説きますが、「共死」と言及するとファシズムか宗教で非科学的とされてしまいます。
 ある説では、『人類の肉体的死をサタン(神)は、宗教で思考停止させ恐怖の対象とした。』と云っています。
 死について『あきらめ』から『恐怖』への対処法を考えてみました。
 確かに科学的手法における死後体験などの追証は、歴史的に一般化されていません。ただし、その分野において科学的手法を通した努力は多くの実績があるにもかかわらず、学会やマスメディアが意図的に否定し、とんでもオカルトとして無視してきたのです。
 死生観について、次の事例を挙げたいと思います。
●チベット密教の死者の書(中有の説 バルド・トドゥル)=仏教の視点
●ルドルフ・シュタイナーの精神科学から見た死後の生=神秘オカルトを越えた科学の視点
 参照「精神科学から見た死後の生」ルドルフ シュタイナー (著)西川 隆範 (翻訳) 定価1995円
●胎内記憶 を持つ子供らが医学調査によるとナント33%もいた=医学調査
 参照「胎内記憶・受胎前記憶について考えるページです」
http://blog.livedoor.jp/tainaikioku/archives/19524636.html
●誕生日による右脳と左脳のスイッチ=認証された脳医学研究成果
 参照「ヒロさん日記」誕生日という「年輪」が刻まれる瞬間に、耳を澄ます。
http://www.mypress.jp/v2_writers/hirosan/story/?story_id=1320382

 これらについて私は、太陽系と宇宙の星々、光・虹、音・振動周波数と人間が密接不可分に一体化しており、その具体化したものが生と死であると考えています。
 科学とか宗教とかに、こだわる時間もないでしょう。だからと言って、虚偽であってはならないでしょう。
 誠実な良心、道徳心、美しい愛と言った、個人の内面的主体性による価値の選択が求められると考えます。
 既成の基準に捕らわれず、純真無垢で幼子のようにバカ正直な直感による、自己決断とならざるを得ないでしょう。
 バカ正直な直感を誘発できる智恵のサイトが構築できたら、少人数での実施チームでの日常的行動が必要になると思っています。

 さて、死生観の事例
●チベット密教の死者の書(中有の説 バルド・トドゥル)=仏教の視点
これは、「三万年の死の教え ―チベット[死者の書]の世界―」中沢新一(角川ソフィア文庫)が定価500円が、読みやすくお勧めします。
1993年 NHKで放送された「チベット死者の書」と連動したものです。
分かりやすい参照HPは、BLOG FRY の同名ページです。
http://fry.asablo.jp/blog/2007/12/07/2479243
▼引用
 『チベットでは、「死」は、終局を意味せず、1.生命存在のバルド、2.死のバルド、3.心の本性のバルド、4.再生のバルドで構成された世界を移動する事に過ぎない。
解脱出来ない魂は、1→4の過程を繰り返し続ける。
1.死の第一段階は、呼吸の停止だが、身体の内部では気脈は保たれている。
2.やがて気脈は、頭頂部と臍部からの2つの気脈がぶつかり、バースト状態となる。
 ここで、生前、ヨーガの訓練をしておれば、パニックに陥いる事なしに、次の段階に進む事が出来る。死後も常に心を冷静に保っておかなければならない。
「バルド・トドゥル」はこの為への教えなのだ。
3.透明な光に導かれる様に意識は、死者の身体から分離していく。
4.この段階に至っても、死者は聴覚だけは生きており、老僧の言葉を聞くことが出来る。
5.1~2の過程を経ていよいよ3の心のバルドへと移っていく。
6.あらゆる意思の根源の光が現れる。同時に様々な邪念も生まれる。
 大日如来や阿弥陀如来等の光と一体化出来れば、解脱への道をたどれるが、それが出来なければ、4.の再生バルトへと移行する。ところが、これらの正しい光、死者にとっては、グリーンや白色の極めて強烈な光なので、恐怖感に先に捕らわれる。だから、正しい光を見極める為にも生前から修行が必要なのだ。
5.再生バルドでは、再び生命バルドに転生する為に幾つかの試練がある。そこで死者は、六道の内、何に生まれ変わるのかが決定される。日本の閻魔の様なヤーマ神が支配する世界だ。』
▲転記終わり。

 日本人の葬式は、仏式が多いと思いますが、この本を読むと、初七日、閻魔大王のお裁きを受けるという三十五日、忌中(きちゅう)である四十九日までの遺族の心得などの理由がよく分かります。
 私の父母が亡くなった際、兄弟(私は末っ子の長男)に法要の理由を知っているかと聞いたら、詳しくは知らないとのことで、みんなにこの本を配りました。
 東京の生活が長く、名古屋の父母の実家には時たま、冠婚葬祭しか帰省しませんでした。
 40歳まで夢分析をしていました。手相人相、タロット占いにおいて不遜なまでの自信を持っていました。
 手の皺もカードも道具に過ぎない位置づけなのですが、直感が異様に当たりました。
 よせばいいのに母方父方両親、更に先祖の血脈まで、本人が認識していない領域まで踏み込んで、あからまさに言及していました。
 8年ほど前、頼まれて観たのですが死相があるなど軽率に言及し、本当に一週間後に死んだと報されたときなど、己の不明を恥じました。
 観相と言うより行きつけのバーでの会話ですが、同席していた奥様にその後お会いしたとき、宿命だった感謝していると言われたのが、せめての救いでした。
 同席していた霊感の強いバーのママには、ロクちゃん軽々に死相があるなどと、本当であっても言わない方がいいよと言われました。
 話が横道に外れましたが、身近なひとの死に当たっては、最近では他者に話さないのですが、四十九日まで「初めての死を経験している縁あるみじかな方」へ、私なりにバカ正直な己の直感を信じた精神的、霊的な応援に努めています。
かと言っても何も出来なく、四十九日間共にあることを直感するだけです。
 私は、死後体験や幽体離脱、UFOを見たと言った経験はありません。

 チベット密教をお伝えしていますが、日本人の冠婚葬祭の常識的範囲の再確認です。
 密教にのめり込むことは、麻原彰晃を例にあげるまでもなく、日常性を越えた危険な領域を意識しなければなりません。
 あえてお伝えしますが、「真言立川流」と言う密教の一派があります。
 これは、毘沙門天、飯縄(高尾山薬王院ご本尊)、秋葉権現等に連なる、死を司る閻魔天(ヤマ)と性や愛欲を司る荼枳尼天(ダキニ・ダーキニー)へ至ります。
 つい戦前まで、この神仏は、国体護持、権力維持の最高秘法で機能していたと思います。戦後は、白人により意図的に排除され、かつ取り込まれ利用されています。
 私は、それで良かったと思っています。
 権力維持の最高秘法などは、人類にとって迷惑千万です。
 生・死・愛について、独り一人の誠実でバカ正直な直感に取って代わったほうが、健やかで穏やかな未来を掴めます。
 当項だけで、長くなってしまいました。
 死生観の事例の2~4は、次のメールにてお伝えしたいと思います。
 相変わらずの独断です。参考になれば幸いです。

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プロフィール

Roku Matsuno

Author:Roku Matsuno
'65 愛知県立名古屋西高等学校卒
'71 武蔵野美術大学 造形学部 建築学科 都市環境専攻 卒
建築土木造園、都市計画や地域活性化などランドスケープ・アーキテクト(国土景観建築家)です。

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